投稿記事(オスマン帝国の最後)            2023629 中軽米重男

 

オスマン帝国の最後

  (岩手からの便り)

 

はじめに

  大部長い間ご無沙汰してしまいましたが、その訳は、予てより気になりながらどうしても筆が進まぬまま放置していた今回のテーマについて、中々踏ん切りがつかず、だらだらと時を浪費してしまったことに依ります。  

そして今何とか心の整理も付き、全体構想めいたものが微かに頭の中に纏まりを見せたかに感じましたので、テーマはちょっと時代がかった些か重苦しいものではありますが、本棚の片隅に積んだママとなっていたとある資料から表記テーマに関わるエキス部分を抽出して各位に披歴して見ようと考えた次第です。

 

1.主題については

  例に依ってスマホ(ウィキペディア)を開いてみますと、表記テーマについては概要以下のように極く簡単に説明されています。

”オスマン帝国は19世紀に近代化を目指す改革に失敗すると挽回を計った第一次世界大戦(19141919)で同盟国側に加わって敗北。1922111日にムスタア・ケマル・アタチュルク率いるアンカラ新政府によるトルコ革命により600年余り続いた帝国は滅亡した。”

 

2.事実は果たしてどうなのか

一方、私は今そのことについて、”近東問題資料「亜細亜(ア ジ ア)()()()ニ於ケル列強ノ勢力鬫係」”という調書を繙き、改めてオスマン帝国滅亡の実相等に迫って見ようとしました。右調書とは今からほぼ100年程前の1922年(大正11年)に時の外務省の欧米局第二課という部署が作成した資料です。

スマホの味気ない情報とは異なり、微に入り細に及ぶ内容で、且つ、少しく長文となりますが、当時の生々しい世界情勢や時代背景などにも思いを巡らしながら一読いただければと思います。

尚、原文の記述は文語調、片仮名、縦書きとなっていますが、以下、本文は原文の儘とし、適宜注釈、ルビ等を付しつつ、平仮名書きで紹介します。

「アンゴラ政府(注1)の成立及び(くん)()政府(注2)との鬫係」

  注1:現在のトルコの首都アンカラに成立した革命政府

2:君府は嘗てのコンスタンチノープルで現在のイスタンブル、そこに存在した政府 

   はオスマン帝国政府ですが、以下、イスタンブル政府と言います。

  19181030日、連合国の対トルコ休戦条約(注3)はエーゲ海にあるレムノス島のムドロスに於いて締結せられたるが、191923日、希臘(ギリシャ)首相「ヴェネゼロス」は巴里(パリ)講和会議に於いて五大国会議の前に大ギリシャ主義要求の条項を陳述し、同年515日、英仏の同意を得て小アジアに9万の兵を入れたり。然るにイスタンブルの政界混乱の極みに達せしかば、小アジアの各地にトルコの自衛団蜂起して対抗し、而してイスタンブル政府は「ケマル・パシャ」をアルメニアに遣わして派遣軍隊の検閲をなさしめたり。

3:此の条約に因り、オスマン帝国はエジプトとパレスチナが英国、シリアがフラン 

ス、小アジア(イズミルが中心)がギリシャにより夫々分割統治される結果となった。

 「ケマル・パシャ」はギリシャのサロニカ(注:現在のテッサロニキ)生まれの軍人にして統一進歩党の委員として政治運動を試み、大戦中には一軍の司令たりしが、青年トルコ党の首領「エンヴェル・パシャ」と政見を異にせしため頭角を顕す時機を得ざりき。然るに今や彼は国家危急の際に当り国民指導の大任を果たすべき時機なるを覚りオスマン政府の帰京命令に反し各地の自衛団を糾合して国民党を組織したるが、ギリシャ軍のスミルナ(注:現在のイズミル)占領を耳にするや、決然、義勇軍を編成しこれと抗戦するに至れり。

  次いで彼は191967日及び9月の三回、同志をハブサ、エルズルム及びシヴァスに会合し翌年423日、12人の委員よりなる協議委員会をアンゴラ(注、現在のアンカラ)に常置し、所謂「アンゴラ」政府の濫觴(らんしょう)注:基礎づくり)をなせり。而して小アジアは殆ど全部国民党に加担して、また、当時イスタンブルは連合国に占領せられ居りしかば、イスタンブル在住の有識者も競って国民党に投じたり。

  一方、トルコ皇帝「マホメット」6世はムドロス休戦後、その安全を計るため英国と結託せりとの故を以て国民には甚だ不人望なりき。同帝は「ケマル」の挙兵後之を国賊と認め討伐隊を派遣し「ケマル」及びその他の主立ちたる者の官職を剥ぎて宗教上破門の処分を行い、また軍法会議にてこれ等に死刑を宣告せり。

  然るに、イスタンブル政府議会に於いては国民党の勢力益々盛んにしてその2/3の議席を占領するに至れり。而して連合国の官憲はトルコ政府に干渉して内閣を更迭せしむること数度に及びしが1920316日には議会を閉会しアンゴラに関係ある主要人物約40名を逮捕しこれをマルタ島に追放せるため国民党員は(あい)()ぎてアンゴラに走れり。

  更に連合国の講和条約に対する強硬なる態度次第にトルコ国民に知れ渡りしため国民党は領土保全を主張し、また、欧州諸国がトルコを分割せんとするに反対して民主的独立国家を建設せんとする国民運動は益々熾烈になれり。これよりアンゴラ国民党協議委員会はトルコ側講和条件の最大譲歩点を定むる宣言書を起草してイスタンブル政府に送りしが、1920128日、イスタンブル政府議会は是を可決せり。即ち、同日イスタンブル政府議会の大多数をもって協議せる国民盟約は次の通り定まれり。

一、()()()()人の大多数を包含し且つ19181030日休戦の当時敵軍占領の 

 下にありし人民の独占的に居住する領土に関する処分は、該地方住民の表示 

 する自由意志に基づきて決定せらるべきものとす。休戦当時の戦線の何れの 

 側に存するを問わず「オットマン」の回教徒の大多数を包含する帝国内の右 

 地方にして其の各部が宗教並びに教養上の結束に依り統一し且つ同一の崇拝 

 を有して国民的並びに社会的権利の相互尊重に依り意気相通ずる者はその名

 義の何れたるを問わず当然且つ実際上分割するを得ざる一体をなすなすもの  

 なり。

二、カルス、アルダハン並びにバツウムの三地方の処分に関しては、同住民が 

 母国に復帰せんがため其の分離後直ちに正式なる投票に依りて其の意思を確 

 定したるが、本盟約者は更に必要ある場合には第二の人民投票を行うべきこ

 とを同意す。

三、西部スレースの法治に関する取極めは対トルコ講和条約に従えるものなる 

 が、右法治は同住民の表示せる自由意志に基礎を置かざるべからず。

四、帝国の首府にして且つハリファ庁並びにオットマン政府の所在地たるイス 

 タンブルの安寧は、マルモラ(注:マルマラ)海の安寧と同様不可侵にして本

 盟約者は世界商業及び国際交通の為め海峡の開放を確保する目的を以て帝国 

 政府と関係列強との双方の同意に依りて為さざることあるべき如何なる決議 

 においても如上の決定承認を経たる原則を承認すべきことを期す。

五、及び六、・・・省略

  而してケマル・パシャは1920423日各地方よりの代表者をアンゴラに招集して国民議会を開催し、ケマル・パシャ其の議長となりオスマン皇帝に対して帝室費を支払うこととし、5月には独立を宣言せり。・・・以下、中略

  かくの如くして1921年及び1922年にはアンゴラ国民党政府は、露国、(コー)()(サス)諸国、()()(ガン)、ウクライナを始め佛伊両国とも条約を締結しトルコの実権は小アジアに移り且つその国民盟約と新憲法とはトルコ国民運動の基調となり其の本質的希望条件となれり。

  その後国民党の配下にある義勇軍は45万に達しスミルナ方面のギリシャ軍に対抗するのみならずメソポタミアの英軍及びシリアの仏軍と対峙し、海峡方面においては連合軍と対陣せり。連合軍は大戦の為に困憊せる際なりしを以てこの方面に増兵する能わず、ギリシャ首相ヴェネゼロスの建議に従いギリシャ軍にも武器と軍資とを供給してアンゴラ軍に当らしめたり。

  1920810日、連合国とイスタンブル政府間にセーヴル条約を調印せられしが、ケマル・パシャの国民党一派は之を承認せず、然るにギリシャ国王「アレクサンダー」崩御の結果ギリシャ国内に政変ありて19201025日、ヴェネゼロス派は総選挙に大敗して親独系のコンスタンチン王が復位し、而して形勢発展の結果、連合側は19213月、倫敦(ロンドン)に最高会議を開催せり。

  この会議には連合国の招きに応じてアンゴラ政府より代表者を送り、アンゴラ政府は事実上の政府として連合諸国より承認せられたる姿となれり。この会議に際しイスタンブル政府の代表者はその発言権を留保し、先ずアンゴラ政府の代表者をして発言せしめ、然る後に之と同意見なる旨を表明せるに過ぎざりき。而してこの会議に於て企てたるギリシャとトルコの間の休戦の条件は両国間の承認する所とならず。

  19222月、アンゴラ側の委員はイスタンブル政府の斡旋により極めて秘密にオスマン帝に謁見し、ケマル・パシャの訓令として国民党は何等皇室に反対するものに非ず、国民運動を達成したる上は直ちに中央政府の統轄に服従すべき旨言上せる由なり。而して両政府は以下の三ヶ条の条件にて妥協せり。

一、スミルナ地方は海峡地方と合わせてトルコの領土権の下に置くこと

二、スレース及び小アジアの両地方をトルコ領とすること

三、中立地帯の行政委員にトルコ人を任命すること

  而して19223月、パリに英佛伊三国外相会議開催せられ、ギリシャ・トルコ両国の休戦再提議せられたれども、ギリシャ・トルコ共に同意を表せず、イスタンブル政府もまたアンゴラ政府の方針に服従せり。

而してアンゴラに於いては1922519日、フュージー・パシャを首相とする硬派の内閣成立し、713日には更に統一進歩党の色彩濃厚なるリウフ・べーを首相とする硬派の内閣之に代わり対外的に、また、イスタンブル政府に対しても強硬なる態度を把持せしが、アンゴラ軍は同年825日より攻勢を取り99日には遂に小アジアに於けるギリシャ軍を全部撃退せり。而してアンゴラ軍は中立地帯たる海峡を超えて欧州(注:ヨーロッパ側)にも進軍せんとする傾向を示せしかば、英佛伊三国はパリ会議により対トルコ講和の方針を決定し923日付を以てアンゴラ政府に対する近東平和会議招請状をイスタンブルにてアンゴラ側に交付し、更にイスタンブル側にも招請状を送れり。右に対しアンゴラ政府は929日、ムダニア休戦会議を受諾する旨回答し、又、104日には平和会議招請に対する回答文を交付し、ムダニア休戦会議は英仏伊希土五カ国の参加に依り103日より11日に亘り開催せられ、11日、休戦事項を決議し之に調印せり。(注:トルコ委員はイスメット・パシャ及びハミッド・べーにして共にアンゴラ側なり)

 

「イスタンブル政府とアンゴラ政府との関係のその後」

之より先アンゴラ政府のローザンヌ会議無条件参加受諾の件公表せらるると同時にアンゴラ政府は別に口上書を以ってイスタンブル政府の同会議招請に付き三国政府に異議を申し立てアンゴラ政府はイスタンブル政府を認めざるに付き若しイスタンブル政府が会議に参列せばアンゴラ政府はその参列を見合すべしと陳述せり。

更に新任スレース総督レフェッド・パシャは各地に於いて演説して、アンゴラ側は皇帝マホメッド6世をカリフとして認むるもその主権者たるを認めず、主権は国民にあり、国民の代表者たる議会がこれを行使す、アンゴラ議会は立法府たるのみならず又行政府たり、議会は適当なる議員を選任して各省大臣となし、日々の政務を処理せしむるも行政を連帯責任を以て各大臣に委任するに非ず、各大臣は重大なる政務につきて一々議会は意見を聞きて決せざるべからず、行政の権利及び責任は全て議会にありと述べたり。

然るに他方、イスタンブル政府はアンゴラ政府に対し1922111日、爾後の両政府の取るべき方策などについて電報を発出した、・・・中略・・・

  更に115日、レフェッド・パシャはイスタンブル政府各省次官、県知事、警視総監その他各庁長官を招集しアンゴラ政府の訓令に依りイスタンブル政府を司るべき旨を告げ、各行政方に関するアンゴラ政府からの来電に基づく概要以下の指示を告げた。

一、イスタンブルをアンゴラ政府の統治下に置く

二、各省、各庁は之を廃す、各省次官及び各庁長官は記録及び現金の保管に就き個人的に責任を有す

三、裁判はアンゴラ政府の名において行べし、イスタンブル大審院は之を廃す

四、イスタンブル衛戌都督、憲兵司令官及び警視総監をレフシェッドの指揮下に置く

五、産業は全てコンスタンチノープル県に於いて管轄す・・・以下、略・・・  

  従来、トルコの憲兵警察は三国憲兵の監督下に在りしが、レフシェッド・パシャが政権を執りてより警察上の事に就き一切連合国の容喙(ようかい)を断り、トルコ憲兵隊を訓練しおりしフランス国将官も116日以来その職を解かれ、尚、税関より債務監督委員を追い出し、ケマリスト官吏之に代わりてケマリストの税率を適用し、また、酒類奢侈品等の輸出入を禁止せり。

  右は連合国の占領と両立し難く、三国高級委員は連日会議を開き当面の処置に就き各本国政府に対し訓令を請い、イスタンブル内に戒厳令の宣布の内訓を得たり。

  斯かる状態なりしかば、三国憲兵とトルコ憲兵巡査の間に職務遂行上(しば)(しば)衝突あり、トルコ警察に三国より連絡将校を派遣することとし協議漸く纏まりしが、皇帝は未だ退位せず英軍は万一を(おもんばか)り宮城(注:ドルマヴァフチェ宮殿)付近に在りて陰に護衛しつつありき。

  1115日、アンゴラ政府はハミッド・べーを経て三国高級委員に1111日付に2通の書翰を送り国民会議はイスタンブルの行政を掌ることとなりたるに依り之に其の法律及び決定を適用する次第なれば、云々と述べたり。

  1116日の夜、トルコ皇帝より英国ハリントン将軍に密書を以て身辺に危険迫れりにつき本夕中逸走の途を講ぜられ度き旨依頼ありしに依り、ハリントン将軍は病院車を宮城に送り皇帝及び近侍総て9人を右に隠し乗せ、英国軍艦「マラヤ」迄護送搭乗せしめてイスタンブルを出帆しマルタ島に向はしめたり。

されば、アンゴラ国民議会は17日、秘密会に於いて法定相続者たりしアブドル・メジッド殿下を回教主カリフに選挙し、18日の国民議会にては先帝の廃位を決議し、右の旨レフシェッド・パシャより20日付書翰を以てこ公式我内田公使(注:当時の在イスタンブル日本国公使館公使)にも通知あり。

而して、20日以来アンゴラ政府はイスメット・パシャ以下の全権委員をローザンヌに派遣し、イスタンブル政府よりは何等の委員も派遣せずして連合国の平和につき付議しつつあり。尚、皇帝アブドル・メジッドは24日には即位式を挙行せり。而して(因みに)、先帝はその後1923年(大正12年)15日、マルタ島を去りメッカに赴けりと云う。(注:メフメット6世はその後1926516日、イタリアのサンレモで逝去、時に65歳でした。

 

まとめ

1.如上のオスマン帝国が最後を迎えようとしていた1918年(大正8年)から 

 22年(大正11年)にかけての激動の時代は、我が国にとっても、我が故郷岩 

 手が生んだ平民宰相「原敬」が総理大臣という激務に直面した時代でもあり 

 ました。そして原は、承知の通り、1921年(大正10年)114日、上野駅 

 頭で凶刃による暗殺という不合の死に直面します。

2.前述のとおり本拙稿のネタ本は、今からほぼ100年程前に、時の外務省嘱託 

 「内藤智秀」氏の調査により作成されたものですが、然らばその資料が何故

 に私の手元にあるのかについても、少しく明らかにしておかなけらばと思い

 ます。

 私は1979年から82年の約3年間、トルコのイスタンブルにある日本総領事 

 館に勤務しましたが、その総領事館建物は、我が国がオスマン帝国との間に

 外交関係を維持していた時代から存在した古色蒼然とした時代的にも貴重な

 建造物でしたが、そうしたことからその建物の倉庫の中には永年に亘り(戦

 前から)整理されないままに保管(放置)された古い文書や諸資料などが存

 在していました。 

 そうした中で、偶々時のS首席領事が本省の外交史料館副館長として帰国し 

 て後に、私宛に右文書類の本国への送還を依頼してきました。そこで私は単

 独で相当量に上る諸資料類の整理と本国送還作業を行いましたが、その際 

 偶々発見した資料の中に今般のネタとなった当時の国際関係諸条約やその他

 の歴史的な重要文書、更には関係地図類等を含む約450ページに及ぶ大部な 

 書籍を発見したのです。勿論、本来ならそれも本国へ送還すべきものでした 

 が、その時私はその資料にとても心惹かれ、それを私的に保管するに決した 

 のです。 

 それが今もその資料が私の手元にある理由です。因みにその後約40年を経た

 今となっては、懸る私の行為(公用品の私物化)は最早、時効となっている

 ものと考えています。

                                 

                              (終わり)